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【気まぐれ日記】やる気はどこから
「やる気はどこからやってくるのだろうか」
生徒がカリカリと問題を解いているときにふと思うことがある。
「どこからもやってこないのか?」
「もともとやる気というのは存在しないのか?」
食欲や睡眠欲は誰にでもやってくるのに、勉強への「やる気」となるとなかなかやってこない。
そうなると、そんな「やる気」なんてもともとどこにも存在しないんじゃないか…とすら思ってしまう。
来るのか来ないのかわからないようなものを待つのは本当につらい。
たとえて言うなら、
「『当たり』が入っているかどうかわからない駄菓子のくじを、なけなしの小遣いをはたいて引き続ける」ようなものである。
その『当たり』は、駄菓子屋のおばちゃんに抜かれていて入っていない可能性があるわけだから。(ひどすぎる…)
だから、こう考えた方がいい。
「やる気がやってくるのを待つのよりも追った方が早い」と。
うだうだと「やる気でねぇなぁ」とゴロゴロしながら待つより、さっさと動いてやる気を追う方がいいのだ。
動くことで、やる気が出現する場合が多々ある。
何かを成し遂げようと意志を強く持つことはもちろん大事だが、坦々とこなすこともまた必要なのである。
というわけで、久々に坦々と書いてみた日記なのでした。
【気まぐれ日記】何を売るサービス業?
前回の続きか?と思われた方、すみません。
(続く)と書いて続かないからこそ「気まぐれ日記」なのである。
最近になって、同業者のブログをよく見るようになった。
以前は、「どうせみんな自分と似たようなこと書いてるだろうな」と思い見向きもしなかったのだが、ちょっとしたきっかけで見るようになったら、これが面白い。
おススメは右側にリンクしているので、ぜひアクセスしてほしい。
そんなお気に入りのブログの一つに、「猫ギター先生」がいる。
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【気まぐれ日記】小論文万歳(内容は小論文じゃないけど…その2)
(これを読むのは、前回の日記を読んでからの方がいいかもしれません)
高校に入った前田少年は、英語・数学が大好きだった。この2科目は、パターンを繰り返し練習し、ある程度暗記すれば解ける。そんな学習法が当時の前田少年に合っていたわけだ。
しかし、苦手な科目は中学時代と変わらず国語と社会だった。国語の古典は大好きなのだが、現代文はまるっきりダメ。
「傍線①の老紳士の心情として、もっともふさわしいものを次から選べ」
「よし。たぶんウだな。」
「正解はイ」
「はぁ~?なんで? 普通、ウだと思うだろ」
という感じである。
社会も地理のような丸暗記科目(本当は丸暗記ではない)は大丈夫なのだが、世界史は全然覚えられなかった。
「世界史、おもしれぇ~」
「日本史のあの先生の授業、最高!」
「やっぱ政治経済が一番だな」
と言ってる友達の気持ちがまったくわからなかった。
世界史はカタカナばっかりだし、日本史は同じような苗字ばっかりだし、政治経済にいたってはまるっきり興味がわかなかった。
社会の先生の話を聞いてもおもしろさを感じないのである。いや、仮に面白いと思ったとしても、ただそれだけ。その内容は点数に関係のないところなのだ。
このような情けない当時の自分を分析してみよう。
これには、自分の『育ち』が大いに関係しているのではないかと思う。
前回の日記にも書いたが、幼いころから前田少年は「自分の意見」というものがなかった。「素直なことはいいことだ」がモットーなわけだから、人の話をしっかり聞いてその意見に従うことが「いいこと」なのだ。
村自体がとてものんびりした雰囲気で、悪人と呼べるような人は周囲にはいなかった。だから、人の意見はとても貴重なのである。反論するなんてとんでもない。素直に話を聞いて、忠実に実行できるのが褒められることなのである。
思えば、こんな経験はあまり記憶にない。
「あれじゃなきゃいやだ~」と駄々をこねてみたり、
「それは違うんじゃないんですか」と反論してみたり、
「この人は嘘を言ってるんじゃないか」と疑ってみたり、
「このチョコのこの味が好きなんだよな」とこだわってみたり…。
つまり、自分の意志で何かを決めるという経験が少なかったのだ。
だから、何か本を読んでも誰かの感想を聞かないと自分の感想が思うように言えない。だって自分がどう思っているのか、自分でもわからないのだから。したがって、人の意見に左右されやすい。
これはなぜなのか。
おそらく『思考』を放棄していたのではなかろうか。
人が言ったことに従うのは簡単である。何も考えなくていいわけだから。
「あぁ~。そうなのか。じゃ、そうしよ」
これよりもむしろ、
「えぇ~?そうなのかな。こっちの方がいいでしょ。だって、こうだもん」
と考える方が明らかに面倒くさい。しかし『思考』しているといえる。
『素直』という黄金の2文字によって『思考』することを放棄してきた長年のツケが、高校時代に表出してしまったわけである。
中学時代は、苦手といっても高校受験の範囲は狭いので、強引な『暗記』によってなんとかなってきた。
しかし、大学受験のレベルになるとやはり『暗記』だけでは追い付かない。『思考』し本当に理解した上で学ばないと通用しないのである。
そんなわけで、思考力が必要な国語や小論文、おおげさに感情を入れて楽しむべき歴史がどうしても苦手だったわけだ。
では…
なぜ、そんな少年が「経済学部・経営学科」に入り、学生時代に社会の塾講師として2年間楽しんだ後、社会人になってからもわざわざ塾講師に転職し、高校受験国語・社会のスペシャリストとしてやってこられたのか。
それは…
「教える側に回った」からである。
(続く)
【気まぐれ日記】小論文万歳(その1)
以前にも書いたことがあったが、小論文はその人が普段から何を考えているのかがわかるとても優れた入試だと思う。
というのも、普段意見を持っていない生徒が、小論文の入試当日に新たな意見・考えなど思いつくはずもないからだ。
たとえば「コミュニケーション」について普段まったく考えたことがない生徒がいるとする。小論文の課題が「コミュニケーションについてどう思うか」だ。必死に考えるも、焦ってしまって考えが浮かばない。
なんとか制限時間内に浮かんできたものは、
「コミュニケーションを大事にしないと、人間関係が壊れてしまうことがある」
というありきたりの主張だったりする。
別にありふれた内容でも、それが論理的に述べられていればいいのだが、残念ながらそういった生徒は、以下のような悩みも抱えていることがほとんどだ。
自分の体験を入れなくては…と考えるも、その体験も中学生が書きやすい「部活動友情論」だったりする。社会的事象を書こうと最近のニュースなどを思い出そうとするが、普段ニュースなどは見たことがないのでわからない。
つまり、普段何の意見も持たずに生活していると、残念ながら内容の薄っぺらな小論文になってしまうのだ。
経験からいうと、「素直でとても人がいい」生徒ほど内容が薄い傾向にある。
逆に、性格が少しひねくれていてちょっぴり生意気なくらいの生徒の方が、いい小論文を書いたりする。
これは私自身の幼いころからの経験から言ってほぼ間違いない。
人口5000人足らずの小さな村で育った私は、幼いころから「親・先生・目上の人のの言うことは聞きなさい」と常々言い聞かされていた。「くちごたえ」などもってのほかだ。
いや、別にうちの親はほとんど叱らない人だったので、別に「くちごたえ」するようなこともなかったのだが。
この言葉を固く守り続けてきた私は自分でいうのもなんだが、とても「素直」な子どもだったように思う。
「素直な事はいいことだ」をスローガンに、「人の好さ」を全面的にウリに出していた前田少年がつまずいたのは、高校生の時だった。
(続く)
【気まぐれ日記】情報過多
今日の国語の授業の評論文がおもしろかったので、メモがてら日記をしたためておこうと思う。
マスメディア(テレビ)についての評論文だったのだが、簡単にまとめるとこんな感じだ。
「情報」というものはテレビ局だけが秘匿しているもののような感じがするが、そうではなく、情報の材料は私たちの方が比べものにならないほど多くもっている。そういう意味では、私たちは情報の「生産者」でもある。情報を「消費」しているとともに生産者であることを自覚すべきだ。
と。ǂ
【気まぐれ日記】お手伝い
実家はお茶の小売をしていた。静岡からお茶を仕入れ、それを店舗で売っていた。お茶と一緒に、駄菓子も売っていたりする。それをちょくちょくもらっては食べていた。だから、駄菓子には結構詳しい。
幼い頃、友達からうらやましがられたっけ。
そんな功少年が幼い頃、「家が商売をしてていやだなぁ」と思ったことがある。
それは…ǂ
【気まぐれ日記】よってたかって…
突然だが、最近の風潮について書きとめておきたい。
そもそも『風潮』というのは誰が作るだろうか。国民全体?東京?OL?高校生?中学生?
もちろん、根本的には国民全体なのだが、実際は国民自らそれを創り出しているわけではないだろう。
風潮に影響を与えているモノの一つに、『マスメディア』が挙げられる。
マスメディアとは、人と人との間で情報を伝達する手段そのものであったり、コミュニティ内の感情を共有するためのものだったりする。
その代表的なものがテレビだ。新聞もインターネットももちろんマスメディアだが、テレビほど影響は大きくない。それは、自分自身が触れている時間の長さを比較すればわかる。
昨日、目にした(耳にした)メディアで最も時間が長かったのは何かと思いだせば、一部の職業の方を除いては老若男女問わずテレビのはずだ。
そんなテレビだが、最近は何かと『揚げ足とり』の風潮があるように感じる。
少し前では「カップラーメンの値段が400円」とか、「ホッケの煮付け」とか…。
ワイドショーを中心に、こんな人が首相をやっていていいのでしょうか的なノリで、おもしろおかしく報道していた。
確かに、カップラーメンは140円程度だということは庶民なら誰でも知っているだろう。
しかし、キャベツ1個はいくらかと聞かれると、自分は庶民であるはずなのに自信がない。
ホッケに煮付けはないということを知っていたかといえば、「まぁ、確かに開いて焼かれている姿しか見たことないよなぁ」という程度の知識である。骨、取りやすくていいんだよなぁ。あの魚。
別に麻生首相を擁護するわけではないのだが、そんなくだらないことを大々的に取り上げるのはどうなのだろうか。よっぽどその時間を『裁判員制度特集』に充てた方がいいと思える。
クイズ番組の「おばか」組の人気を考えれば、人の失敗・失言をテレビで取り上げるのは確かに視聴率が取れそうである。視聴者は「そんなのも知らないんだ」と優越感に浸れるから、視聴者から共感を得やすい。
ただ、これはとても危険な風潮のような気がするのである。テレビ(を含めたマスメディア)が1人をよってたかって責め立てる。手を替え品を替え、次から次へと追及していく。
もちろん、マスメディアが首相に同調しすぎるのも危険なのはわかっている。しかし、度が過ぎてはいないだろうか。
私には、テレビそのものが『揚げ足とり』をしながら「いじめ」を容認しているような気がしてならない。
「あはは。こいつ何でこんなのもしらねぇの?あほか?」
「そんな漢字も読めないんだ。それはヤバイでしょ。」
もし、学校で自分の子供がクラスのみんなにこんなことを言われたら、それはそれは…。
まぁ、確かに、一国の首相なのに「その発言は…」と首をかしげざるを得ない発言があるのも事実である。また、それが多いのも事実である。
ただ、肝心な本質の幹の部分を報道せずに、枝葉の部分ばかり取り上げて報道するのは、テレビ(を含めたマスメディア)本来の意義を脱してはいないか。
また、こういったブログなどで『炎上』という言葉が流行るのも、まさにそういった最近の風潮を象徴している。
さらに、「KY=空気が読めない」という言葉も同様だ。
「ここはみんなと一緒に責め立てようぜ」
「いやいやちょっと待てよ。本質を議論しよう。」
「何だよ、KYだな。ここはみんなに合わせろよ」
いつからこうなってしまったのだろうか。昔からそうだったような気もするが、それが最近になって特に気になるのは年をとったせいなのか。
テレビ(を含めたマスメディア)の報道に対して、
本質はどこにあるのか?
事実はどうなのか?
自分の意見はどうなのか?
テレビだけに頼らず複数のメディアから情報を収集することで、本質を見失うことなく自分の意見を確立していきたいと思う今日この頃。
また、生徒にも物事の本質をとらえる力をつけてほしいと願う今日この頃である。
【気まぐれ日記】ゴミは拾え
「でっかいことをやりたいならそこに落ちている目の前のゴミを拾おう」
(記憶で書いているのでこれが正確な表現ではない)
昔、何かでこれを目にした時、人生観が変わるくらいの衝撃を受けた。
確か、とても有名な経営者の言葉だったと思う。
これを目にするまでの私は、
「偉い人はきっとチマチマしたことはやらないに違いない」
「何かを成し遂げた人は、いきなり大発明をして大金持ちになったはずだ」
「資格さえ取っちゃえば就職も楽だし、給料も上がるだろう」
と、極端だが、少なからずこんな感じの甘っちょろい考え方を抱いていた。
しかし、冒頭の言葉を読んだ私は、頭をおもいっきり棒で殴られたぐらいの衝撃を受けた。
そうなのだ。でっかいことをやった人たちも、最初は小さなことから始まったのだ。
しかも、彼らはその小さなことを普段から積み重ねているわけである。
積み重ね方も半端じゃない。例外なく毎日積み重ねるのだ。
つまり、生活習慣そのものをみてもやはり「成功する人」なのである。
別に仕事っぷりがとりわけスゴいというわけではない。
(もちろんスゴいのだが)
普段の意識が違うのだ。
目の前にゴミが落ちていれば必ず拾うだろうし、1円玉が落ちていたら「今助けてやるぞ」と言って大事に拾うに違いないのである。
自分の仕事に関係することならば、ひとつでも多くの情報を得ようとするだろうし、自ら情報を発信するはずなのである。
家人に頼まれていたモノは、買い忘れることなくその日のうちに買ってくるに違いないのだ。バームクーヘンを買ってきてと言われてチーズケーキを買ってきてはいけないのである。
ゴミの日をうっかり忘れてしまい、キッチンにゴミ2袋もためてはいけないのだ。
普段からの意識は大事である…。
(勉強のヒント437参照)
【気まぐれ日記】論理力UPがカギ
中1・2の全国規模の模擬テストが返ってきた。何が楽しみだったかって、国語の成績である。中2は、今年の4月から国語教材に「論理エンジン」を採択した。60分/1週間という少ない時間数ながらも、定期テスト2週間前もあえて学校の教科書内容をやらずに論理エンジンで継続して教えてきた。
その成果が最も顕著に現れるのが模擬テストのはずである。
しかも、全国規模で13000人以上が受けるテストだ。偏差値も信頼できる。
早速、簡単にデータを分析してみる。
ちなみに、うちの塾は科目を選べるようになっているため、選択者・非選択者で比較ができる。
【6月→11月の偏差値推移】
論理エンジン非選択者平均 +0.7
論理エンジン選択者平均 +5.8
選択者の中には、偏差値が8UPした生徒が2人いる。
これだけだと、漢字や文法で成績が上がったかもしれないという反論もあるだろうから、6月の随筆文、11月の随筆文で比較してみよう。
【6月→11月の随筆文のみ平均点】
論理エンジン非選択者平均
[6月] ⇒ [11月]
31.4/56 19.4/32
論理エンジン選択者平均
[6月] ⇒ [11月]
32.8/56 22.4/32
これは顕著だ。6月の時点では56点満点でたった1.4点しか差がなかったのが、11月には32点満点で3点もの差がついているのだ。32点満点で3点ということは、選択者・非選択者で相当の差がついていることがわかる。
【11月の論説文のみ平均点】
論理エンジン非選択者平均
[11月]
22.2/36
論理エンジン選択者平均
[11月]
29.6/36
スゴいの一言だ。随筆文よりもさらに差が広がって、7.4点となっている。
「国語は上げにくい」という定説をひっくり返したことになる。国語は上がるのだ。国語力がつくことで、社会科も上がっていく。さらに、論理的思考力が身につくのでいわゆる「ケアレスミス」が減る。(ケアレスミスの要因の一つに「問題文を読む力がないため」というのがあげられる)
ちなみに、これらのデータには後から入塾した生徒は含めていない。つまり、6月に受けたメンバーと同じメンバーで比較している。だから、かなり正確だ。
これらのデータを見て、
「もともと論理エンジンを選択している生徒は優秀なのではないか」
という見方をする人もいるかもしれない。
しかし、実際はそんなことはない。国語が苦手だからこそ選択しているわけだし、6月時点ではそんなに大きな差はなかったのだから。
なんといっても、国語偏差値が+5。やり方次第で上がるもんなんだな。
【気まぐれ日記】勉強に目覚めた瞬間
その生徒の前ではなぜかその感情を出せず後悔したのだが、今日鳥肌が立つくらい嬉しかったことがあった。
それは、休み時間のこと。
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